チャレンジプロジェクト(土呂久に集まれ!)‐社宅跡整備プロジェクト‐【11月活動報告】
「土呂久に集まれ!‐社宅跡整備プロジェクト」は、かつて土呂久鉱山で発生した砒素公害の影響を受けた宮崎県西臼杵郡高千穂町土呂久地区に焦点を当て、2021年から宮崎国際大学の教育学部の学生チャレンジプロジェクトにより活動をしています。
今年度は以下の3つに目標に向かって活動をしています。
1 地元の人々だけでなく、土呂久地区に魅力を知った県内外の人々が集まる「憩いの場」をつくること
2 現在の土呂久地区の魅力を発信すること
3 土呂久地区を教育の場として活用するための土台をつくること
これらの目標に向けて、今年度の活動では、土呂久地区に伺い地域の方と交流をしたり、土呂久鉱山の社宅跡の整備活動を行ったりしました。また、学生内でのミーティングやWEBサイトの作成、宮崎大学で長年にわたり土呂久公害の記録や支援活動を行っている川原先生による学習会を行ったりしました。
國谷公平さん(教育学部2年)が活動報告をしてくれたので、ご紹介します。
1.土呂久公民館で毎年開催される地域内の交流イベントの参加(もみじ祭り)(R6年11月3日)
〈参加者:4年:髙松 2年:上床、國谷 1年:工藤、橋本〉
この活動は、目標「2 現在の土呂久地区の魅力を発信すること」に向けた取り組みです。
写真1:交流会の様子
もみじ祭りは、土呂久公民館で毎年開催される地域内の交流イベントで、二年連続で参加させていただきました。このもみじ祭りを通して、美しい紅葉を楽しむとともに、地元の名産品であるなば(原木椎茸)や高千穂町で生産された牛肉を味わうことができました。
おいしい食事を楽しみながら、地域の方々とより密に直接交流する機会となり、土呂久がどのような地域であるのか、住民の方々の実際のお話を伺うことができる大変貴重な体験の場となりました。
2.大切坑の見学(R6年11月9日)
〈参加者:4年:中村、三浦、戸髙、髙松 2年:上床 1年:工藤、橋本〉
この活動は、目標「3 土呂久地区を教育の現場として活用するための土台をつくること」に向けた取り組みです。長年にわたり土呂久公害の記録や支援活動を行っている宮崎大学の川原先生にも来ていただき、高千穂町職員の引率の方々に案内してもらいました。
写真2:職員の方から説明を受けている様子
ヒ素を含んだ鉱石を掘り出した主要な坑道である「大切坑」を見学し、お話を伺いました。以下は、その内容を要約したものです。宮崎県高千穂町では、環境復元と集落の再生を目指し、土呂久鉱山跡地における「大切坑」の坑内整備工事と水質改善事業が進められています。
「大切坑」は1934年に坑内水を排水する目的で掘削されましたが、1958年に地下110メートルで水脈にぶつかり、噴き出した水が土呂久川に流出したことで一時的に休山しました。その後、採掘は再開されましたが、1962年に最終的に閉山しています。しかし、閉山後も坑内水からヒ素が検出され、環境への影響が続きました。渇水期には毎分3トン、増水期には毎分12トンを超える坑内水が土呂久川に流入し、1983年には農業用水基準(ヒ素濃度0.05mg/L以下)を超える濃度が確認されました。
この事態を受け、1988年には鉱害防止対策基本計画が策定され、坑内外の調査および工事が実施されることになりました。2006年度からは、大切坑内の岩盤や廃棄されたズリをセメントで覆い、空気や水との接触を防ぐことでヒ素の溶出を抑える取り組みが始まりました。工事当初、坑内水のヒ素濃度は0.13ppmでしたが、2016年頃には0.04~0.07ppmまで減少しています。最終目標として、2023年までに農業用水基準値である0.05ppm以下にすることが掲げられました。
さらに、2019年度には「大切坑」の坑口から右奥に延びる約535メートルの坑道整備工事が完了し、計画された砒素の発生源対策工事はほぼ終了しました。その結果、鉱山下流の土呂久川農業用水取水地点におけるヒ素濃度は基準値以下となり、水質改善目標が達成されました。
この一連の取り組みは、地域環境の復元と生活の再生に向けた大きな一歩となっています。
なかなか入ることのない坑道を見学させていただき、とても貴重な経験をさせていただきました。
写真4:大切坑を見学している様子
3. 土呂久公害に関する第一人者である川原先生による土呂久学習(R6年11月17日)
〈参加者:4年:三浦、髙松〉
11月17日、宮崎大学で長年にわたり土呂久公害の記録や支援活動を行っている川原先生の「亜ヒ酸製造による環境汚染・農林水産物・健康被害」についてのお話を伺いました。以下は、その内容を要約したものです。
写真5:土呂久学習の様子
①亜ヒ酸とその用途
•亜ヒ酸の毒性
亜ヒ酸は致死量が0.1~0.3gの猛毒であり、飲料水や農業用水、農用地土壌にはそれぞれ環境基準が設けられています。飲料水では0.01ppm以下、農業用水では0.05ppm以下、農用地土壌では15ppm以下に抑える必要があります。
•亜ヒ酸の用途
江戸時代にはねずみ駆除、18世紀半ば以降は殺虫剤として使用され、第一次世界大戦後でドイツ軍の毒ガス兵器として利用されました。昭和初期から第二次世界大戦にかけて、日本の陸軍は大久野島で毒ガス製造を行い、亜ヒ酸を使ったルイサイトやジフェニール青化砒素が作られました。
写真6:亜ヒ酸の粉が入った瓶
•亜ヒ酸の製造過程
初期は野外で火を起こし、砒素鉱石を投げ込んで亜ヒ酸を採取していました。その後、大正時代には昇り窯が導入され、大量生産が可能になりました。この亜ヒ焼き窯は1920年から1941年まで使用され、高さ約2m、斜面20度の石積み構造で、内部は4つに仕切られていました。
②環境汚染
•戦前の亜ヒ焼き労働者の労働環境
写真7:亜ヒ酸の製造過程
労働者は亜ヒ負けを防ぐため、顔や手、股に白粉を塗り、頭には帽子、その上から手ぬぐいで顔を覆い、首にも巻くという重装備で作業に当たりました。しかし、それでも煙や粉塵による呼吸器や皮膚へのダメージは避けられず、皮膚はかぶれ、呼吸器は侵されていました。
•戦後の亜ヒ焼き労働者の労働環境
戦後は新型焙焼炉が導入されましたが、労働環境は依然として過酷でした。集ヒ室に入ると髪がバリバリと音を立て、呼吸が困難になるほどでした。支給された防塵マスクは熱でゴムが溶け、火傷を引き起こし、長靴も熱で煙が出るほどでした。労働者は外に桶を置いて雨水を溜めておき、その中に入ることで体を冷やしていました。
写真8:戦後の鉱山事務所
③農林畜産物被害
•20~30年経過した杉林は成長が止まり、竹林はほとんど枯死し、植林が立ち枯れする状況でした。
•川の石は赤く染まり、魚類は姿を消し、椎茸の原木からもきのこは見られなくなりました。
•大豆、小豆、きゅうり、梅、カボス、柿、椎茸、タケノコなど、多くの農作物に深刻な被害が出ました。
•牛や馬などの家畜も次々と死んでいきました。
④人の健康被害
•亜ヒ焼き労働者の健康被害
労働者は咳が止まらず、声がかすれ、顔色は蒼白で、目は充血していました。皮膚はただれ、鼻は匂いを感じなくなり、激しい頭痛や皮膚の角化が見られました。
•佐藤喜右衛門一家
地主で鉱夫頭だった佐藤喜右衛門さんの家は、亜ヒ焼き窯から100mの距離にあり、亜ヒ酸の影響を強く受けました。奥さんのサキさんは黄疸や腹痛、浮腫を患い、46歳で亡くなりました。その後、次々と家族が亡くなり、2年間で7人家族のうち5人が命を落としました。
•周辺住民の健康被害
鉱山近くの住民は喘息に苦しみ、全身が腫れる症状が見られました。子供や家畜も次々と命を落とし、生まれた子供には肝臓や呼吸器の病気が多く見られました。その他にも咳、手足のしびれ、激しい頭痛、がんなど、多岐にわたる健康被害が報告されています。
川原先生には、土呂久鉱山の歴史や公害の実態について、私たちのために貴重なお時間を割いて詳しくお話しいただきました。心より感謝申し上げます。ありがとうございました。